The Back Horn

某所にて最近の彼らの方向性についての言い争いがあったのでなんとなく思ったことなどをだらだらと。
興味ない人はスルーよろしくお願いします。暑苦しく語ってるのが恥ずかしくなったら唐突に消します。


まあ、最近の曲は正直、人間プログラムとか甦る陽聴いたときの衝撃はないな、と思ってはいます。
ただ別に私は彼らが駄目な方に変化してるとかは全く思わないんですが、それと曲が好みかどうかというのはまあ全く別の話でして。


「愛だとか恋だとか言う前に/この空を見上げなさい」(晩秋)と叫んでいた彼らが「抱きしめて恋をした/それが全てだった」(未来)と歌うようになった。
それは別に何が悪くもないと思っていて、人間の感情なんて日々変化していくわけで、だけど「晩秋」で泣いた私は「未来」では泣けない。ただそれだけのことなんですよね。


「未来」以前にも彼らは人を愛しているということは歌ってるんですが、ただ全体的にその対象は異性に限定されてなかった。それは友情にも見えるし、友愛にも見えるし、親子の情にも恋愛にもとれる。だから私が同調していたところってあると思うんです。
たとえば「どうかあなたが幸せでありますように」(泣いている人)とか聴くたびに泣きますもん私。それは私がこんな風にボロボロになったときヘルプを求める相手は今のところ恋人とかそういう存在じゃないから、そして私はこの曲が明確に恋人に向けて作られた曲じゃないと思っているから。
だから現在進行形で恋人との別れを考えてる人は「針の雨」に同調して泣くのかもしれないし、絶賛純愛中なら「未来」で泣けるのかもしれません。それは個人で違うことだと。
彼らと全く同じように変化していくことが出来ない限り、彼らの歌の全てに同調することなどできるはずもなくて、そのことについて良いだの悪いだの言うのってナンセンスですよね。もうついていけないからファンやめる、はいサヨウナラ、みたいに割り切れることじゃないのも分かってるんですが。昔の歌が好きなら好きなだけね。


んで、それとは別にもう一つ私が感じているのは、彼らは都会に慣れてきちゃったのかな、ということだったり。
「何処へ行く/青く咲き野道を遠く離れて」(何処へ行く)のようなリアルな田舎道の風景は最近の彼らの歌からは消えて、「懐かしき顔の待つ/夏草の揺れる丘」(夏草の揺れる丘)になってしまった。それは日常的に存在していた(過去形)空気への憧憬とか郷愁とかそんなものになってしまって、都会の人間が「田舎に憧れて歌う歌」になりつつあるようで。
「夢だけ食ってれば生きてられた日々」(思春歌)のままでいることは疑問の余地なく不可能ですから、これも必然的な変化だとは思うんですが、やっぱり彼らの歌にあった土臭さがどんどん洗練されて、裸足で割れた空き瓶の散らばる東京を歩いてたような彼らが「こんな風に上手に人混みを歩く靴」(夢の花)を手に入れていくのを目の当たりにするのが私は悲しい。一ファンの勝手なぼやきに過ぎませんが。
なんだ結局私も最近の彼らを好ましく思っていないのか?(自問)


最近の曲でも好きなのは好きですけどね。「水面に咲く満月の"凛"」(赤眼の路上)とか「笑う才能がないから/顔が醜く歪むだけ」(ジョーカー)とか鳥肌立ちますし。
でもね、もっとシンプルなものでも人の心は動くと思うんですよ。「何処へ行く」の最悪な音質と青臭い技術と泥臭い歌詞でも泣く人は泣くんだもの。
原点に帰って欲しいとは言えないし、彼らには彼らなりに信念があって歌を創ってると信じているのでこれからもファンはやめないと思いますが、それでもたまには「愛だとか恋だとか言う前にこの空を見上げ」て欲しいなあと思うときがあるのです。
そんな戯言。