かきかけ

あの人が約束を望んだのは、おそらく最初で最後だったと思う。
死神の気配に怯える様子すら見せず笑っていた。己もまた、笑んで答えた。
それがあの脆い人の言葉ならば己は、…己には、何を躊躇う理由もなかったのだから。
 
 
 
 
 
この老齢になって漸く、己を『簒奪者』と呼ばう人間がちらほらと現れた。
否、その声が漸く自分の下に届く程大きくなってきた、と言うべきか。
国のため、主君のために尽くしていたと見せかけ、
その実自らの利権を拡大していただけではないのか、と。
 
何を、今更。
 
口の中で転がした言葉の響きが思いの他気に入って、少し唇を歪めた。
己は最初からその心算で動いていた、あの人が喪われてからずっとだ。
こんなにも己が国の中核に食い込む前に、気付かない方がどうかしている。
 
 
 
…全くだな
 
 
 
低く嘲笑を含んだ声が鼓膜を震わせる。
あの人を喪ってから時折響く声、己にしか聞こえぬ幻の声だ。
余りにも明確に聞こえるそれが真実あの人のものなのか、己の妄執が生んだのかは
今もって判らぬままであったし、どうでも良い。
 
幻聴を聞くようになってから幾年が過ぎたのか。
憶える気も数える気も、端から無かった。
その声が己には確かに聞こえているから、あの人が本当にもう何処にも居ないという
紛れもない筈の事実こそをいっそ不思議に思う。
 
己は、狂っているだろうか。
最も近しく、最も愛した人の二度と開かぬ双眸、再び己の名を呼ぶ事のない唇、
…萎えて痩せ細り、体温を失った四肢。
そんなものを目にして尚、悲嘆も空虚も感じなかったというのに、な。
 
 
 
何を考えている
 
 
 
楽しげな声は笑いを含んで、その命が失われる直前にはもう叶わなかった筈の音程で響く。
幻はもう虚弱な肉体から開放されて、自由なのだろう。
 
 
「…貴方との、お約束の事を」
 
 
幻の声に、己は応える。
その正体が己の狂気で在ろうが無かろうが、あの人の声であるならば応える義務が己にはあるのだ。
お前にこの国を呉れてやる、そう言って瞑ったあの人だけが、未だ己の主であるが故に。
 
『好きにしろ…叡を主とするも、簒奪者と成るも。
 …その代わり』
 
あの人以外の誰かに己が従うなど考えても居なかったくせに、そんな風に言ってみせた。
せめてもの意趣返しにと暫くは狗を演じもしたが、直ぐに飽いた。
酒に溺れる君主の下で勢力を伸ばすことは、それでも容易くは無かったが
長い長い暇潰しには丁度良いと思ったものだ。
 
 
「私は、貴方とのお約束を果たせているのかと。
 …歳の所為でしょうな。そのような事ばかりが近頃、気に掛かります」
 
 
あの人を喪った時、共に埋められても構わなかった。
そうしなかった己は、つまり死ぬ機を逸したのだ。
殺されても良いと思った相手と共に逝けなかった身は最早、
歳月に奪われるのを待つ他にない。
 
判っていて生を選んだ理由など、唯一つだけ。
唯一つだけの小さな小さな約束の為だけに己は。
 
 
 
お前は相変わらず、肝要な処で、馬鹿だ
 
 
 
幻の声が、笑う。
最期の願いを、それは命令かと聞き返した己に苦笑して見せたのと同じように。
あの時も確かそうだ、お前は馬鹿だと言って笑った。
嘲笑でなく声を立てて笑うあの人の姿を知る者も、今は己の他になくなった。
或いはもう既に、あの人の顔を見覚えている人間さえ。
それを少し寂しく思う。これが歳を重ねると言うことか。
 
 
「…私は」
 
 
寂しく思ったところで、涙はない。あのときも。今までもずっとそうだった。
北からの風に声が掠れて消える。老いた身には堪えるが、
この程度で壊れる身体でない事を知っていた。
 
 
「私の見る現世は、こんなにも薄暗いのです」
 
 
『お前にこの国を呉れてやる。その代わりに、
 …俺の代わりに、将来(さき)を見ろ』
 
 
「このような、有様ではとても…とても」
 
 
将来(さき)など見えない。
見えるものはただ、黒く濁っては渦を巻く権謀と、術策と、貪欲と、………………   。

あの人はきっと知っていたのだ、己が、あの人の存在と共に、全てから意味を見失うことなど。
知っていて望んだ約束の意味を、知りながらずっと気づかないふりをした。
あの人の望みは、己にとってそれほどに途方もない。
時に穏やかに、時に嘲りを含んで、聞こえる幻の声はそんな己に対するあの人の未練なのだろうか。
いっそそうであればいい。そうであれば幻の声はつまり、
短い蜜月の果て、肉体が失われるまで続くこの片恋が、己だけのものでない証となるのだろうから。
 

 
お前は、馬鹿だ。
 
 
 
繰り返される幻の声は少しばかり寂しげで、そしてそれきり聞こえなくなる。
己だけが感じるあの人の気配が消えて、安堵と哀しみを同時に覚えた。
そんな声を聴きたい訳では決してないのに、幻の声との会話は常にこうだ。
 
 
「このような有様では、とても…」
 
 
とてもあの人との約束を果たすことなど、できそうにない。
 
 
歳月に奪われ、最早印象を僅かに残すだけとなった記憶を呼び起こす。
最期のとき、あの人は確かに笑んでいたのだ。
己が知る中で最も美しいと思ったその表情すらもう遠い。
 
 
 
 
『それは、ご命令ですか?』
『……いいや、約束だ、仲達』